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  2. 時代衣裳展

江戸中期から後期にかけての変遷、武家・公家・商家着用の小袖・打掛等を展示

我国のきもの文化は、中国の影響を受けて発達し、近世にいたり、小袖が我国固有のものとして確立された。やがて単なる衣服としてのきものから、文様を主体とするきものへと移り変わり、上層階級のみならず庶民の日常生活にも影響を及ぼし、今日に至っている。中世の中頃までは大袖形式であったが、小袖は簡便で動きやすいため、庶民は表着としてこれを用いた。文様主体のきものとしては、絞り染めや刺繍の技法が主流となり、それらは辻ヶ花染や繡箔というかたちで装飾的な小袖へとなっていった。「辻ヶ花染」は、室町末期より江戸初期にかけて流行したが、描絵・摺箔・刺繍の占める割合が大きく、染色としては素朴な味わいのものであった。「繡箔」は多彩な刺繍を金銀の箔を制で付着させる技法の染織である。江戸前期の繊箔のなかに「慶長小袖」とよばれ独特の様式をもった小袖があるが、綸子を用いて、紅・黒・白の三色で複雑に染め分け刺繍と繊箔で装飾された小袖である。さらに刺繍と絞り染めの到達点が「寛文小袖」であり、文様を左右にかたよせ、空間を大胆に残した小袖が誕生する。

江戸中期になると、きものの文様は拡大して余白がほとんどなくなり、右襟から右裾にも文様を配する意匠が流行し、俗にいう「売禄小袖」となる。その後、糸目糊を自由に使い防楽し、多彩に染め上げた染物が、今日のきものの原型である「友禅染」として今に受け継がれている。友禅染とは、扇画面工の宮崎友禅斉が小袖に文様を応用したことからそう呼ばれるようになったものである。徳川300年泰平の時代には、幕政による風俗の影響も大きく、公家・武家・庶民の士農工商と身分制度も出来て、公家は貧しい反面、富で肥える大名もでてきた。織物・工芸・金工等も発達し、絵画も土佐派、狩野派や尾形光琳等が出現する。きものも友禅染が考案されたことにより、小袖が妖艶華美な風姿となり、互いに振舞いを競う様になったため、幕府は天和3年奢侈禁止令を打ち出すことになる。

小袖・打掛について

小袖とは大袖や広袖に対して袖口の小さい衣服のことをいう。奈良時代には男子も女子も筒袖形式であったが、平安時代になると男女の装束が大袖形式となり、公家貴族たちの帯や桂の衣服の下に小袖を肌着として着用するようになった。やがて、袂のある神口の小さな形となり、鎌倉時代以後は、この形が小袖として定形となり江戸期に入り一般庶民も着用し今日に至っている。小袖は公家貴族の肌着であるから白無地から発達し、表着となり、それらに模様がつけられ、染織紋刺繍にとされて今日のきものとして完成してきた。打掛は現在の花嫁衣裳の前身であり、江戸時代の大奥の女性の服制で大変貴重なものであった。小袖の上に打掛けて着ることで公家の世界では早く鎌倉時代か5平常の略装として、文室町時代には公服として着用され、江戸時代の打掛もその伝統を引き継いでいる。打掛は搔取とも呼ばれ大奥では正月や祝日に定められた色、柄のものを着用した。また姫君の婚礼の打掛は白幸菱文浮織物と決っていた。